不定期日報 2023.01.14

 祖父が亡くなった。90才を超えていたので大往生といえるだろう。幸いなことに身体的な不調は最後まで無かったが、去年から記憶等の認知機能の部分で不調が目立ってきており、父がその対策としてホームカメラを祖父の家に入れるなどの対応をしているのをしばらく見ていた。その時期に「もう長くないかもしれない」と言われて、ある程度の覚悟を経た上で訃報に接したので、青天の霹靂といった感じではなく、遂にか、とズシリと重さを持った驚きを抱えるような心持ちになった。

 広島の人間である祖父は、原爆攻撃をその身に受けた人だった。その瞬間に受けた背中の大きな火傷を子供の頃に見せてもらったことがあるが、おぼろげな記憶からは具体的な姿を思い出せない。私が小学生だった時、たまたま私の家の近所に引っ越してきていたので、自分の学年に向けて原爆について特別に講演のようなものをしてもらったこともあった。私は既に当時の話をいくつか聞いていたが、講演では、原爆投下直後に何とか生き延びた祖父が船で川を渡って逃げようとした時、川中から船に掛かってくる誰かの手を振り落とさなければならなかったという話をしており、これはそこで初めて聞いた話だった。その話をそれ以降人生で一度も忘れたことは無かった。その話をした時の祖父は泣いていた。その姿もまだ覚えている。

 祖父とは家が離れていたこともあり、私にとって祖父からの言葉というのはお年玉や誕生日の時に併せてもらう手紙だった。手紙を受け取ったら電話を返し、声を聞くというのが習慣だった。その手紙は、いま使っている机の引き出しの中に常にある。ひとつ引っ張り出して読んでみると、小学生の私に向けて「パパ・ママを止めてお父さん・お母さんと呼んでびっくりさせてやれ」と書いてあった。恥ずかしい話だけれど、このサプライズはいま使うことも可能だよ。やった方がいいかな?

 祖父は、前述の理由もあり、自分が望んでいた進路を歩めなかった思いがずっとあるようであった。そのため、私が中学に進学してからの手紙にはいつも勉強についての応援が書かれていた。私が理系に進む前から、数学・物理の勉強の大切さを説いていたし、一方で文学に触れることの大切さなども手紙に書いてくれた。私の学問的意識は、祖父からの手紙に支えてもらっていたといえるかもしれない。現実にはずっと成績は芳しくなく、いまも変わらず苦しんではいるのだけど。

 距離の都合から頻繁に会うことはなかったので、あまり祖父とどこかに行ったという思い出は多くない。東京に来ていた時に一緒に回転寿司に行ったが、そこの魚でおれがノロウイルスに罹ったことがあったな。そういう記憶もあるにしろ、やはり本とか手紙が自分の中では大きい繋がりであった。いまは両親が祖父の家を片付けているが、残された本のうち幾つかは自分が引き取ることになった。それらの本を読んで得たことをどこかに伝えることができたなら、学問を大事にした祖父の気持ちみたいなものを残せるのかな、と少し考えている。